今日から6月
先月をもって、2人の女性が施設を卒業していきました。新しい職場や施設にそれぞれ進むことになり、非常に寂しくも悔しくもあります。
6月になったとしても、俺の人生が変わるわけじゃないし、モテキがやってくるわけじゃない。就職担当の人間には関心すら持たれず、俺はただパソコンを淡々とやるだけしかない。
いろいろと言いたいことはあるけれど、このブログではなるべくポジティブに行くと決めたので、ぼやきはもうそろそろ終わりにします。
引き続きひろさちやさんの本より
先日紹介した「あるがままに生きよ」で、出版社社員の話が出ていました。概略を説明すると以下の通りです。
ある出版社で、旅行好きの社員がいました。インドやネパールなどに魅力を感じて、休みを取っては旅行に出かけるので、上司はしびれを切らして閑職に追いやってしまったそうです。
その社員は意気消沈するどころか、大変喜び前以上に一層旅行に出ることにしました。旅先で、日本人のある僧侶に出会いましたが、その僧侶が出版社の社員と仲良くなると本を出す気になりました。
やがてその僧侶が有名なお寺の高僧だとわかりましたが、彼は帰国後件の出版社で本を出版しようと訪ねてきました。旅先で親しくなった社員が出版部門にいないとわかると、いたく憤慨しその社員を元の部署に戻さないと出版しないと頑なにつっぱねました。
しぶしぶ元の部署に干した社員を戻すと、僧侶の書いた本はたちまち大人気となり、社員の評判も上がっていきました。異動の言いだしっぺの上司は面目丸つぶれとなったそうです。
今の企業は、低賃金で動く滅私奉公型ロボットを求めすぎている気がします。社員の不幸せから成り立つ企業に社会貢献などできるのでしょうか?
まず社員が幸せになってこそ、消費者などに幸せを届けられると思います。不幸せな社員や会社に、人を幸せにする製品を作られてたまるかってやつです。
本来、企業組合は企業の横暴の抑止装置なのに、現在では企業の領袖でしかないということもひろさちやさんは指摘しています。この機会に是非見直してほしいものです。
経営学に球技の事例が出てくるワケ
よく経営学などで、野球などの事例が組織論で使われるのは、組織の動き方で共通するものがあるからではないでしょうか。
端的な例で言えば、土井正三です。彼は川上哲治監督の下では名セカンドとして巨人V9時代を支えてきました。これはすごく立派なことだし、一流の選手の称号にふさわしいですよ。
しかし、監督になってからは、イエスマン的選手で脇を固めたらしく、イチローなどの選手は肩身の狭い思いをしたそうです。イチローの振り子打法やメジャーリーグ挑戦には批判的な意見を通し、最後まで彼を認めなかったといいます。
「一流の選手、必ずしも一流の監督にあらず」というやつです。
前にも話したと思いますが、高田繁も監督時代に試合終了後のミーティングで、土井と同じようなことをやったと言います。「お前らのプレイは何だ!巨人V9時代は…」と自分らの栄光をチラつかせるという説教をしていたのです。当時、現役だった広瀬哲朗は内心不愉快だったそうです。
何だかこれって、社員としては有能でも、管理職には不向きだったというパターンに似ていますね。
管理職や経営者は、組織や部下をまとめ上げる力はもちろん、戦略等を用いて組織を成長・発展させていく能力なども必要とされるわけです。
優れた管理職や経営者は、組織や部下のみならず、自分自身をもマネージしているのではないでしょうか。それが出来ていないと、地に足がついていないヘタレ指揮官にも等しいです。
自分はそういった能力に欠けているので、経営などは無理ですが、職人気質を要求される仕事であれば、やってみたいと思っています。