心身の不調で悲鳴を上げています
本当はネガティブな話題は、ここのブログでは書きたくありません。しかし、ネガティブな部分も含めて俺でしかないですし、極力ダメージが小さくなるように努力しますのでご了承ください。
今は、逆流性食道炎の疑いがあって胃薬を服用していますが、2週間経っても良くならない場合は、胃カメラを飲んで精密検査となります。
胃カメラもおいしいものではないので、せめてイチゴとかメロン、コーヒーなどの味が選べたらなぁとバカすぎることを考えたりもしました(おい
まぁ、そういうバカも言わないと、自分の精神の安定が取れないんですね(苦笑)
いとおしい矮小な「自分」と悲しき「他人」
自分というものはどんなに卑下していても、どこかで自己愛や自己憐憫の感情が見え隠れしているものです。これは他人にも言えます。
たとえ、自分が好いていても、思うように他人には好かれません。むしろ、好みじゃないタイプの人間に好かれたり、近寄られたりすることの方が多いと思います。
そういう押し引きの問答があっても、蓋を空けてみれば、自分も他人も「自分を愛して!」という思いは共通しているのではないでしょうか。
狭い人間関係だけならまだしも、これが就職活動など人生を決める大行事となれば、みんな必死になるわけです。「企業担当者にウケる自己像」「面接ウケする自己像」「リア充である自己像」…等々。
ぶっちゃけて言えば、これって我執なんですよね。自尊心を大切にするのならまだしも、自分に固執するというのは、独り相撲な気もします。
挫折体験に基づく自己像であれば、人間関係をうまく構築できないなどの悲劇を重ねてきたことと思います。かといって成功体験ばかりの自己像であっても、どこか「世渡り上手」な印象が強くて、要領のよさが鼻につく人物像を描いてしまいます。
失敗も成功もそれなりにして、自分の血肉にできている人は人に好かれようが嫌われようが、朗らかに生きているものです。成功体験ばかりの人は、日和見主義者でそろばんずくの奴だとみなされてしまうのかもしれません。
大切にしたい人
人から嫌われることは、胸を締め付けられるように重く辛い。だから今まで、俺は人に評価をおもねり、評価の奴隷になってきたのだと思います。
家族はもちろん大切にしたいものですが、それ以外に心底大切にしたいのは真の理解者です。主に大学の友人だったり、施設でよく話す仲間だったりします。
悲しいかな人は変わっていくもので、相手の好みや人間関係だって変わっていくはずです。自分は障害のせいもあって、それを受け入れられず、ダダをこねたことすらあります。今もその問題を抱えていて、克服に模索している最中です。
俺はまだ彼女というものはいませんし、今後そういう女性が現れるとも思ったことがありません。もし彼女が出来たら、より大切にしたいものです。