僕の心も雲で覆い隠されているようで
今日は曇天のせいか、少々落ち込みましたし、徒然とした一日でした。親に連れられてラーメンを食べに行った以外は、パソコンのゲームを黙々とやってました。
自分は孤高でもないし、孤独を愛するというわけでもありません。一人になりたい時もあるけれど、たまにはみんなでワイワイやりたい時もあったりします。
でも、チグハグなんすよね。みんなで集まっている時に限って、「あれ?俺って場違いなんじゃね?」と自問自答してしまうんです。特に、俺以外の人間が盛り上がっちゃって、ぼっちになった時に感じちゃいますね。自意識過剰と言われたらそれまでなんですけど。
明日はまた施設なので、頑張ります。
世間の力学
日本でも「個人主義」と言われながらも、お互いが「個」を尊重し合って、建設的な人間関係を作っていくということはできていないのではないかと思います。「個」というのは、その人自身であり、他の人にない、いろいろな特徴があるわけです。
仲間外れやぼっちなどという言葉を見るにつけ、似たような考えや性格の人が集まって、それと合わない人を世間の力学で弾き飛ばしているのかなと考えてしまいます。
世間と言うのもは実体はないけれども、一人の人間を死に追いやる力もあります。それがいじめ自殺やいじめ殺人という形となって表れているにすぎません。日本の場合、コミュニティと世間は表裏一体をなしているのかもしれません。
世間の力学が正しい方向に働けば、東日本大震災の被災者を救おうと一致団結して募金を集めたり、みんなで集まって現地にボランティアに行くと言うこともあります。しかし、力学が誤った方向に動けば、集団で主義主張の違う人を排除するどころか死に至らしめることだって、十分あり得ます。
自分も大いにコミュニティでの振る舞いを顧みなくてはなりませんし、世間の力学で苦しめられたことを再確認して、誤った行動をしないようにする努力をしなくてはならないと反省しています。
障害者のコミュニティに行けば、障害者同士でのケンカもあるし、集団での力学行使ということもあります。逆に、専門職の人間が、職員から利用者まで御しやすいイエスマンで脇を固めて、自分の嫌な人間には満足な支援をしないというケースだってあるわけです。
俺同様に、皆さんも集団でムレて、世間の力学をむやみに発動させてないかどうかを確かめてみる必要はあると思いますよ。
ただし、例外として、あまりにも集団の和を乱す奴がいて、自分たちも万策尽きたと言う場合は、最終手段として世間の力学を発動させるのは当然ではないでしょうか。
アサーションなどにとらわれず、まずはお互いが自分の気持ちを伝えやすい関係づくりも必要かと自分は考えます。アサーションは方法論でしかありません。
俺は世間を否定するのではありません。ただ、その力学の働き方が問題だったりするだけなんだと言っているのです。例え否定する人がいたとしても、世間の中にいる「自分」という存在を、まず自分自身で認めてほしいと切に願います。
自分の人生の選択肢を、世間の人にゆだねてしまえば、トンデモナイしっぺがえしが来ると言うことだけは強調しておきます。
俺もこの機会に世間とのうまい付き合い方を考えてみましょうかね。