Issueおじちゃんの新・ダメおやじ日記

自分の発達障害や日頃考えていることを綴って行きます。

なぜツイッターはバカ発見機になってしまったのか?

俺はツイッターをしていたが、他の人と何のカラミもない上に、弟とつぶやきしてモメてやめてしまったんです。

この頃、ツイッターでのバカっぷりが目立つのを受けて、マツコ・デラックスは怒り新党で「内輪ネタがネットで手軽に表に出てしまっただけ」というように表現していましたが、それも当たっているといえば当たっています。

しかし、逆の見方をすれば、インターネットというもので自分が「時の人」になれると言う間違った全能感を持ってしまっているのではないでしょうか?

  • 某衣類チェーン店の店長と担当者を土下座させた上に、撮影後すぐさま実名付きでアップ
  • 某コンビニチェーン店での悪行の数々(アイスケース侵入、レジでM字開脚等々)
  • 某ピザチェーン店のバイトがピザのドゥを顔に張り付けて撮影

…などなど、本当に閉口します。

この頃思うのは、働く人間の低レベル化に比例して、顧客もガラの悪いのが多い気がします。某ディスカウント店はド○ュン○ーテって言われてるくらいだし。

いくら客が偉くても、土下座をさせると言うのは、ひどすぎるのではないでしょうか?しかも、その様子を写真に撮ってネットに流すのは、名誉棄損にあたる可能性も考えられますよ。店や担当者の名前が公になって、風評被害などが出れば、店側への損害賠償がどーたらこーたらということにもなるかもしれませんね。

まぁ、俺はツイッターをしませんが、バカの多すぎる世の中で隙を見せられないのは実にしんどいものです。

通所中の障害者にも違いがあるからこそ

人にはいろいろなタイプがいると思い知らされました。今の施設に通うのであれば、今の施設長が良かったと思う位です。前任者は実に独善的で、自分の好きな利用者には愛想よくするけれども、嫌いだったり相手にしたくない利用者は完全に冷遇するという有様でした。そんな奴を俺が福祉職失格と言うゆえんはそこにあるのです。障害者福祉の都合のいい部分だけを見て理想論を語っているのは、臨床家ではなく評論家でしかありません。

福祉施設に通う利用者には、さまざまな障害以外にもその人にしかわからない事情などを抱えている場合だってあるでしょう。例え、発達障害に特化した事業所を作ったとしても、利用者の障害などの違いに合わせて取り組める支援がなければ、やってることは有象無象の施設と何ら変わらないわけです。理想論は大事だが、現実的な対案がなければまずやっていけないと思います。

自分とは違う障害者と遭うことで、反目することだってあるかもしれません。これは根っこが同じ障害者同士でも言えることです。相手との相違で生じる摩擦なら起きて当然ですが、相手と同じものや似たものを持っていることで生じる衝突の方がやっかいな気がします。なぜなら、お互いに自分の嫌いなセルフイメージを投影しているだけではなく、そのイメージが影法師になって苦しめているからです。何となくヤマアラシジレンマも見られなくはないパターンでもあります。

相手の鈍感さを感じやすいのは、障害者同士なら尚更あります。こっちが話を振ってるつもりでも、向こうは完全無視を決め込んでいるようにも見えることがあるのです。本人自身の障害から相手への反応が鈍くなっていたりするとなると、ましてや俺のように誤認が多い当事者ならカチンと来てしまう場合はあるでしょう。しかも、そういう人に限って、施設では周囲からマスコットキャラみたいに祭り上げられてしまうので、余計に不愉快に感じてしまうのは本当にわかります。

正直、腹も立ちますが、腹を立てて何度も説教したところで、相手には俺がなぜ気分を害しているのかが伝わらず、ただお互いにしこりを残してしまうので、ぐっと堪えている次第です。

今の状態はお互いに誤解している状態だと思います。本人が自分の障害を知られたくないのはわかりますが、周囲に言わないままならずっと誤解されたままだし、それで配慮してくれと言われても、ふざけんなと言いたくもなるわけで。ましてや、「察しろ」と他の利用者に言うのは暴論でしかありません。障害者と言うのは、たいてい自分の事で精いっぱいであることが実に多いのです。結局、どんなに上出来風にしても、「この人、馴れ馴れしいよね」「こいつ、シカトしてんのか」などと誤解される可能性だってありますよ。

お互いの障害について、基本的な理解ができなければ、総合的に障碍者を相手にする施設を増やすより、ある障害に特化した施設を増やしたほうが余程マシなのではないかと思います。「障害者間で差別してどうする」という声もあるでしょうが、お互いの障害を理解できなくて問題解決を長期化させるくらいなら、いっそのこと初めから「区別」した方がいい。基本的に障害者雇用で企業側が「差別」に限りなく近い「区別」をしているわけだから、施設での能力開発において区別しての育成があってもいいと思います。

障害者同士がお互いの障害を理解しあって、歩み寄っていけるのなら、総合的に障碍者を集めた施設での育成があってもいい。努力してもお互いに疲弊するくらいなら、最初からある障害に応じて特化した施設に行けばいいのではないでしょうか。今の施設では、「前任者に冷遇された挙句、2年間も就労支援にありつけず放置された」というトラウマで悲鳴を上げそうになっている気持ちを引きずっていました。これで施設を信じて下さいと言われてもにわかには信じることができないというのが現状でしたが、現施設長の太陽のような態度により凍りついた心が解け始めています。

自分のよさって

俺が苦手なタイプは、体格も言動もくまのプーさんみたいな男性です。そのような人は周囲からひきたてられやすいわけですが、俺としてはイライラするものを覚えてしまいます。特に、語尾を伸ばしたりするところだけではなく、何もしてなくても好かれるところにイライラさせられます。

俺はそのようなタイプに対して、体は大きいけれども気が小さくネガティブ思考という奴で、イーヨーみたいなものです。アイドル並みに人からは好かれないけれども、一部の人には好かれやすいというマニアックなキャラですね。

プーさんと比べてウジウジしていた時期が俺にもありましたが、ある日の昼下がり、施設の女性職員に食後の一服中にも関わらず、思い切って俺の魅力を聞いてみました。

「あのぉ…、俺の魅力って一体何なんでしょう…?」
「うーん…、IssueさんはIssueさんでいいんだよ。あなたはそれだけで十分魅力的ですよ」

残念ながら俺は、顔は笑福亭笑瓶似だし、ファッションセンスも恋愛経験もゼロ、あるのはMOSと柔道初段の資格くらいなものです。見るからに就職市場では欠陥商品と見られてもおかしくない有様ですよ。それでも、俺は自分のよさを見てくれる職員や利用者のためにも、ネガティブな自分に負けたくなかったんです。

昨日、ゲーセンの帰りに寄った占い屋さんで、手相とタロットで占ってもらいましたが、俺はなんだかんだ言っても、人に助けられたりして上がっていくことから、運気のある人だと言われました。俺自身が色眼鏡を掛けていると、見えるものまで見えなくなるんだなと言うことを、この頃思い知っているような気がします。

確かに、苦手な人はたくさんいて、居合わせるとゲンナリしてしまうし、ついつい言動に出てしまうので、俺は凹んでしまうことは多いんですよね。それでも、生きていればいいことはあると言い聞かせて進んでしまうのは俺のよさでもあるのかもしれません。