Issueおじちゃんの新・ダメおやじ日記

自分の発達障害や日頃考えていることを綴って行きます。

親切の押し売りという名の「押し貸し」

姉は傲慢不遜かつ傍若無人を地で行く癖に、内弁慶を絵に描いたような人間です。だから、俺はこのような輩が自分の血縁とは思いたくないと感じることがあります。挨拶してもシカト。話しかけるなオーラ全開でスマホやらニンテンドーDSをいじってる始末。人のミスにはモヒカン族みたいに揚げ足を取るように訂正しようとする。皆さんは、こんな女性が自分の姉なら、どう思うでしょうか?

俺はことあるごとに姉への不満を母にぶつけてきたが、一向に解消されませんでした。それどころか、姉との溝は深まるばかりで、米ソの冷戦並みになってしまいました。両親は世間体に囚われてるのか、仲良くしてくれないとこっちは浮かばれないだの言いだす始末。「俺にそうさせたのは誰だよ。あんたらに決まってんだろうが!」と内心思っています。彼らにそういったところで、結局通じないからねー。

一番始末が悪いのは、姉が俺にした施しを挙げて、母がお前にこうしてくれただろう、ああしてくれただろうなどと言ってくることです。これって、共感でも何でもないんです。勝手に作らされた姉への「貸し」を盾に、無理やり納得させようとしているだけ。何か言おうものなら、嫌なら出て行けとか、睨みを効かせて、外的コントロールというものを使ってくるから本当に卑怯すぎる。ここまで来たら、そんなのは親切じゃない。親切の押し売りという名の「押し貸し」でしょ。

「情けは人のためならず」ということわざは、人に情けを掛けるとかえって相手のためにならないという意味ではありません。本来、情けを掛けていれば、いつかは巡り巡って自分に返ってくるものという意味です。精神科医やカウンセラーは、親切は掛け捨て保険のようなものとよく表現しています。自分もある自己啓発本で見かけて、なるほどと思い知らされ現在に至りますが、ついつい人からの見返りを期待してしまいます。まさに「この俗物め!」(byハマーン・カーン)と言われても仕方ないですねorz

「~してあげただろう」などという言葉を聞くたび、本当に虫唾が走ります。内心「袈裟を着た破戒僧と同じ癖に!」と功徳のなさをなじりたくもなります。今でも、デブス姉などに腸が煮えくり返って仕方ありません。

俺が自分で愚かさを悔いているのは、自分で決断し自分で行動の責任を取る経験が本当に乏しかったことです。俺が行動に移そうとしている時にはすでに親がやっていたからです。俺が教職を志したといっても、結局教員の仕事のうわべだけを見てしまい、決めさせられたというのに近い。自分が唯一決断したのは、発達障害を自分で理解した上で、障害者として福祉を受けるということだけです。