Issueおじちゃんの新・ダメおやじ日記

自分の発達障害や日頃考えていることを綴って行きます。

ぶり返したフラッシュバック

今日、くまのプーさんが施設にきたので、彼をひいきしている職員らは当然キイロイ声を上げて寄って行きました。俺はそのような職員とも関係性が出来つつあったと思っていただけに、すごく裏切られた気分になりました。俺は一人だけ、やり場のない怒りや悲しみを握り拳で潰しつつ堪えていました。不意の来客もあった上に、怒りをぶちまけたくてもぶちまけられず、折りを見て一度帰宅したわけであります。まぁ、この場合は、親父から頼まれた作業をやりに戻っただけでしかありませんが。

四物湯を飲んでいてフラッシュバックも楽になってきた矢先の出来事だけに、どうにもできない自分の感情が恨めしくなりました。根底にあるのは、彼への敵愾心もそうですが、どうしてもデブ独特のルーズっぷりが許せないわけです。あと、今までデブにいじめられて「デブ害」というものに遭ってきたという経緯もあるので、一筋縄ではいかない問題ですね。

本当は今にも怒りが毛穴から噴き出さんばかりの状態でしたが、それを無理やり押し殺して、男性職員に話を聞いていただいた次第です。彼は俺の今までの変化を前向きに評価しつつも、その時抱いていた非合理的思考を諌めました。聞いていていい気分はしないのに、うんうんとメモを片手に傾聴して下さって本当にありがたい限りです。

プーさんのシンパ職員とは、元よりさほど接点はありませんでしたが、これがきっかけで余計に話すこともめっきり減るでしょう。仕事上の話はしますが、個人的な話は一切しないようにするつもりです。あと、務めて話しかけるようなこともしないし、つかず離れずでやろうかなと考えています。露骨に距離を取ると後で問題がこじれそうだからね。

人は万華鏡だからこそ

俺は、人の性格や障害特性は、万華鏡のようなものと考えています。例えば、俺の障害を取ってみれば、衝動的で感情を爆発させやすい面が施設でよく出ていても、座談会では率先して手を挙げて意見を言うことで、進行を助ける一面が出ているわけです。万華鏡をくるくると回すと様々な景色が見えてくるのと同様に、人の一面も状況によってがらりと変わってしまいます。

環境以前に、人は自分の都合のいいように解釈する一面がありますので、どんな相手も白や黒になったりすることは当然あります。福山雅治のように話術もあるイケメンに出くわした時、目がハートになる女性もいる一方で、白けたのび太のような表情でスルーする女性もいるのではないでしょうか。これは男性の場合においてもそうです。指原莉乃のような女性をブスという人もいれば、かわいいという人もいます。(彼女の場合は逆に神経が図太いのもあるのかもしれんが…)

他者視点と自分視点のセルフイメージの差が少なくなってきた時に、双方にとって付き合いやすい人が関係づくりを出来るようになるのかと考えています。自分の抱く人間の好き嫌いは否定すればするほど、自分に跳ね返ってますますやりにくくなります。その好き嫌いが表にある程度出てしまうのも致し方ないですが、出さないようにするのではなく、多少出てもどうフォローするかを考えた方が気は楽ですよ。

俺は、威張った奴やインテリ系が大嫌いですが、そう意識してしまうと怒りのあまり歯を食いしばって口角が下がってしまうので、なるべく思い出し笑い寸前にまで自分の意識をそらして目じりを下げる意識で向き合っています。人によっては変人と思うかもしれませんが、常に仁王の形相でまなじりをキツくしているよりはエネルギーの浪費は抑えられる気はしますけどね。本当は怒りを爆発させて完全に距離を置ければいいんですが、それやっちゃうとガキのケンカになっちゃうでしょ。それが許されるのは学生時代までじゃないでしょうか。

施設でも、社会で挫折して通所している人もいるわけですから、それこそ社会人から見てガキっぽい人もいるわけですね。もちろん、俺も含めて。対人技術が未熟ですと、当然衝突も起きますし、障害によっては大声を出したり危害を加えてくる人もいます。幸い、俺のところでは語気の荒い者同士の口げんか程度に収まっていますが…。職権で無理やり押さえつけるような愚行だけは慎んだ方が後々のためです。多少しんどくても、利用者に失敗や摩擦を回避したり解決する経験を積ませた方が支援者としての仕事が出来ていると評価にもなります。

脇道に逸れたようなので、話を戻しましょう。Aさんはやさしいと評判であっても、やさしいというペルソナを被って剥せない状態になっているのであれば、これは大変なことになります。反動形成が生じて、犯罪行為や自傷他害に及ぶことも十分考えられます。俺から言わせると、Aさんは「人にはやさしくすべし」というプログラムに支配されていて、怒りや悲しみを負の感情として否定するルーチンが刷り込まれているとしか思えないのです。

怒りや悲しみが悪なのではありません。それら自身を否定し、向き合わずに何もしないことが悪だと俺は思います。怒りをストレートに出してしまっては、デモやストに等しい行為になってしまうからこそ、理性で制御しつつ言葉に怒りを乗せていくことが理想ではないかと考えます。多少語気は荒くなるにしても、兵器や肉体言語に訴えるよりはましですよ。悲しみも言葉に乗せて人に伝えることで、それを相互で共有して理解に持っていくきっかけになります。

人がいるかぎり、その数だけ誤解は生じます。度重なる誤解があっても、どうするかで今後の関係性は決まってくるのではないでしょうか。人という万華鏡を好き嫌いのフィルタで見るか、心眼で見るかは皆さんにお任せします。