Issueおじちゃんの新・ダメおやじ日記

自分の発達障害や日頃考えていることを綴って行きます。

自己責任論の危うさ

世の中は基本、自己責任論だというのはわかります。しかし、何でもそれで片づけたがる傾向ほど危ないものはないと考えています。

先程、「報道2001」を見ていたら、産婦人科医の宋美玄さんが「ダウン症などの子供を妊娠しても(周囲が)自己責任で片づけたがる傾向はどうかと思う」という趣旨の意見を述べていて、なるほどと思いました。妊婦がどんなに胎教などをしっかりやっても、身体障害や知的障害、ADHDアスペルガー症候群などの発達障害を持った子供が生まれてしまっても自己責任というのは、余りにも妊婦へのやさしさに欠ける。某厚生労働大臣の「産む機械」発言並みに暴論である気がします。

自己責任論が雇用のみならず、人間の起源である出産にまで及んでいるのならば、本当に嫌だなぁと思います。自己責任論は否定しませんが、俺はそれが安易なラベリングの材料にされることを毛嫌いしているに過ぎません。

ヒエラルキーは続く。

今、スクールカーストというもんが話題となっていますが、これって大人社会の猿まねでしかないと思うのです。大人になれば、官公庁や会社であっても、組織間の序列が始まり、ひいてはそこに所属する大人たちで散々値踏みした挙句、序列づけしてしまうわけです。

やれ、学歴はどうだ、親族は何してる…などなど、「人間版ダビスタじゃねぇか!」とツッコミをガチで入れたくもなります。

出生前検査などが発達して、障害児を省くような時代になっても、ヒエラルキーは基本的に崩れることはありません。動物と言う存在は、ヒエラルキーの下に生かされているからです。ボス猿やボスライオンなるものもいるから、種は繁殖していくのだし、弱い種は淘汰されます。これは人間以上に厳しいものです。

人間にはまだ理性や言葉、知性がありますから、そのような動物のマネをして排除するのではなく、可能な限り弱さを持つ人間も社会参加していける居場所づくりは必要だと思います。ヒエラルキーある限り、スケープゴートは絶対に生まれます。障害者をふるいにかけるフィルタリング社会になったとしても、イケニエが障害者などの社会的弱者から、母集団での弱者にとってかわられるだけです。

ナチスドイツはユダヤ人狩りに飽き足らず、教会に非難する精神障碍者などにも魔の手を伸ばしました。それに憤った神父がすさまじい気迫で、ナチス兵を追い返したという逸話も、べてるの家の本で紹介されています。歴史でもそういう事実があるにも関わらず、そこから学べないのは一面哀れとしか言いようありません。

ヒエラルキーを断固として否定しても、なくなるものでありません。ただ、頂点に立つ者には、それ相応の「ノーブレス・オブリージュ」を全うしていただきたいだけです。俺の場合は、目の前に来た球を打つことしかできませんけど。