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Issueおじちゃんの新・ダメおやじ日記

自分の発達障害や日頃考えていることを綴って行きます。

四十路ダメオヤジの苦しい胸の内

彼女にもフラれ、就職活動も3年近くやっていても、正規採用には結びつかない有様で、世をすねた挙句、ふざけた当事者や障害者に噛み付いたりメンチ切ったりしたことも数知れずです。俺は今、いろいろな心のモヤモヤがあって、胸が苦しくて仕方がありません。

発達障碍者というサイレント・マイノリティとして生きるたびに生じるルサンチマン
「俺の人生、本当にこれでいいんだろうか?」という自分の人生への不信感。
持て余している自分自身への失望感。
など。

自分の力不足なのか、家族は愚か専門職にすら発達障害を理解してもらえない時期があり、それさえなければ「俺は今頃は就職できていたはずなんだ!」と今でも思ったりもします。

さらに大学について考える

前にも言いましたが、俺はDQN私立大学から偏差値がちょっと上の私立大学に学士編入しました。今回は、前者の母校のことを中心に語り、さらに発達障碍者はそこでどうなるのかを考えていきます。

一つ目の母校は商学部のみの単科大学で、92年入学の俺らはベビーブーマーということもあり、将来の定員割れという憂き目を知る由もありませんでした。勉強や人間関係にしても、要領よくやる奴は大学で人気者になっていきました。俺の場合、クソマジメで発達障害に気づけないでいましたから、周囲からは鼻つまみもんと呼ばれながらも、なぜか友達として心を開いて付き合ってくれる奴らが何人かいました。彼らがいなければ、多分俺は中退してニートになって、さらに落ちこぼれ、一生恋愛経験もないまま、死ぬまで魔法使い*1になっていたかもしれません。

俺は虚栄心から、ユーレイ部員だらけだったESSで会長をやっていましたが、年度初めの部活動紹介でスピーチをした時のことでした。いきなり場内から「プシュー」などという声が聞こえはじめ、当時今よりも気が小さかった俺は動揺して早々にスピーチを切り上げ、怒りの表情を顔ににじませたものでした。大学の付属高校出身の友達から聞いたことがありますが、この声はそこの高校で代々流行っているブーイングだそうで。「こんなチンケな伝統なんざ流行らせんじゃねぇよ!」と、今でも言ってやりたいと思っています。

まぁ、こんな奴らが多いわけですから、ムラ意識が強まり環境もますます悪くなっていくわけです。某文芸誌にもこの傾向を辛辣に指摘していた文がありましたが、今になって何か正しいのかなぁと思えるようになりました。大学側にも腐敗の兆候が徐々に表れたことを最近知りました。あくまでもネットでの噂ですが、火のない所には煙は立たないとも言いますので、紹介しますね。

理事一族による専横が極まると、某教員が様々な努力の末に獲得した、文部科学省からの研究助成金を横取りして、その教員に横領の罪を被せる形で退職をさせると言うことも聞きました。学生から人気のある某教授が「大学院を出ていない教員が学長をやるな」と元学長に圧力をかけ、その教授主導によりその学長に対する解任動議を進めたという噂も聞き、非常に悲しくなりました。同窓会の人間が100万単位の同窓会費を着服するなどというスキャンダルも発覚し、そんなことまで出たら閉校もやむなしかと感じました。

金や権力を持てば、自分が全能感を抱いてしまうのかもしれません。英語でuniversityと言えば、様々な学部・学科の専攻からなる高等教育機関のはずです。商学部だけの大学は、collegeと言うべきではないでしょうか。英語での正式名称を見ると「ナントカuniversity」となってますので、外国から留学しようとする人は多分、いろいろな学科があると錯覚してしまいますね。ちなみに、俺の外国人の友達も一度留学しに来ましたが、慶應義塾大学に入り直して卒業し就職しています。学生や教授の質を見て、呆れたのもあるんでしょう。

優れた教員が他の大学に移籍した時点で、崩壊の序章は始まっていたとも考えたくなります。知っている先生が定着せずに、猛烈な勢いで少なくなっていくのを見ると、裏寂しさを感じます。卒業生が顔を出すようになってこそ、大学というものは学生の腐敗を防ぐことができるのだと思います。就活のバカヤローという本で、慶應義塾大学が就職戦線で活躍できているのは、卒業生がよく来ることで社会人と関わる経験値が増え、必然的に就労への意識も違うし、社会で活躍できる人材としての素地が出来上がってくるからだと書いてあるのを見て、「ああ、俺のとこと違うな」と愕然とした記憶があります。そこの違いに、理事側や教員側が気づいて対処し、学生を鼓舞することができなければ、早晩閉鎖になりますよ。

受験戦争の中の発達障碍者

受験戦争は、一昔前であれば無意味記憶に近いものを問われやすい傾向にありました。それこそ、アンアンやマジアカのグロ問のオンパレードと言った方がわかりやすいでしょう。

さて、勉強だけ出来る発達障碍者の場合、受験戦争は発達障害の特性に加え、モーレツに勉強した素地もあって、うまく行きやすい人は行きやすい。しかし、大学によっては、自分の才能を開花させられるか、逆に人間関係をうまく築けずに思考停止に陥ってしまう人に分かれます。

俺の場合、何やらせてもダメだったので、受験戦争に放り込まれて、恐怖のあまり泣きわめいて逃げてきた敗残兵みたいなものです。正直に言えば、俺みたいなダメ人間が行くような大学は、DQN私立大学しかなかったわけです。逆説的には、当時の大学設立バブルは俺のようなバカにとって渡りに船だったのかもしれません。

大学を増やして、閉鎖する大学が続出するくらいなら、大学の設立基準を厳しくするか、発達障碍者にも適応しやすい環境を用意した方がいい。現行法の中で、発達障碍者への配慮が奏功するのであれば、それに越したことはありませんが、発達障碍者の能力開花に徹底的に特化した大学があってもいいと考えています。

京都精華大学がマンガ学科を設立したくらいですから、わけのわからないカタカナ学部・学科を作るくらいなら、発達障碍者やグレーゾーンの人間を集中的に集めてやってみてもいいでしょう。本当ならば、インクルーシブ教育として「発達障碍者普通教育を!」というところですが、発達障害への無知・無理解・偏見と三拍子そろった世の中では、発達障碍者のための環境が必要です。

政府がDQN私立大学に助成金を出すくらいなら、「発達障害者育成プロジェクト大学校」などと銘打って学校法人に、ビジネスモデルを発表させるコンペをやってもおもしろいと思いますよ。もちろん、某NPOのクソバカデブみたいな使い方をしないように、監視役を徹底的に付けた上でヒモ付き予算を支給していけばいいわけで。

企業が「ダイバーシティ」と声高に語っていても、結局発達障碍者はかやの外です。就職活動でも、就職課が企業に発達障碍者のよさを売っていくことも必要です。発達障碍者は概して、自分のやり方にこだわりやすいし、就職活動でスランプに陥ったりこじらせたりして初めて、自分のやり方がまずいことに気づく人が多いんです。支援者としての見栄やジコマンで、当事者に考えを強要するのではなく、当事者自身の答えを大事にしつつ、然るべき方向に導いていければ、ミスマッチやジョブホッピングは避けられるのではないかと思います。

「努力は裏切らない」「がんばれば報われる」というお題目で、乗り切れる時代はもう終わりである気はします。大切なのは、PDCAサイクルの中でどう自分を律していくかではないでしょうか。仕事の多くは、「計画を立て、やることを決めて行い、振り返ってみる。さらにまた行動する…」の繰り返しですからね。当事者から失敗から学ぶ権利を奪わず、当事者が失敗から責任を取る経験をしていかないと、学校は出たけれど施設に依存…ということになりかねません。

発達障碍者もまた人間です。気になる異性がいれば、ほのかに甘酸っぱいような気持ちが湧き上がることだってあります。もちろん、ムラムラくることだってあります。「障害があるから結婚なんてムリなんジャパイヤー!」と親や専門職がファビョったところで、結局彼らは障碍者を人間として認めていないのを証明しているようなもんですよ。問題は、自分の障害と向き合い、相手に理解してもらった上で、どのように結婚生活を送るかを考え行動させることではないでしょうか。

*1:つまり女性経験がないってことだ