陽の当たる道の向こうへ
やはりネガティブな俺でも「陽の当たる方向へ進みたい!」と切に願っているものです。しかし、現実はうまく行きませんし、今日はとりわけ落ち込んで涙を流してオダを上げてしまったくらいです。
ひろさちやさんの「あるがままに生きよ」では、自分の力ではどうにもならない努力を相手に強いて、そのくせ上司や先輩が「使えない奴だ」と安直に言いやすいと指摘していました。
例えば、ブドウの種が地面に落ちても、そこの土が腐っていたり、日陰にさらされていたら、育ちようがないわけです。種を咲かせたければ、陽の当たる場所に植え土壌をよくして、水を与えて行かないと絶対に育ちません。
桜梅桃李だからこそ価値はさまざま
施設で就職を決めた人が「(施設で静かな人は)自分を出し切れていない」と言っていましたが、確かに間違ってはいません。自分を出し切れてないから自己主張を激しくするというのは、いささか突飛な論理ですよ。
自己主張の仕方がわからなかったり、苦手だったりする人には、就労移行の施設にいるのなら、施設側が見通しを付けて助ければいいだけのことです。
河合隼雄先生も言っています。「イライラは見通しのなさを表す」と。利用者によっては、見通しがないから、逆に不安がったり、攻撃的にもなるわけです。
こいつは不安で攻撃的だからと、そういった利用者を脇に追いやるのは簡単です。人材を育成する施設ならば、その前に本人と妥協点を見出して、対策をするなどしてほしいものです。コーチングの言葉で言えば「外的コントロールでイワす」というところでしょうか。
桜梅桃李ということばは、それぞれの花にも良さがあるように、各人にも同じことが言えると言う意味です。どうか一つでもいいですから、相手の良さを見つけて、家族のようにかわいがってほしいものです。前にも言いましたが、障碍者の多くは自尊心が傷ついているものです。