夕食での説教
本当なら忘れたいんですが、先日弟が商売の悩みを抱えているから、俺の行動が
ノー天気に見えるらしく、無職のことをネチネチといわれ「お前、将来何がしたい
のよ」「資格でも何でも取れ」…等々。
滔々と両親から言われ、辛かったです。自分の甲斐性がないのは今無職だから
言われても当然だから我慢しているしかないけど。頭痛もする上に、正直毒まん
じゅうを食べさせられた気分です。
自民党の某老害議員の流行語じゃないが、かつての先輩に電話で相談したら「今は
産みの苦しみかもしれない。いつかそれが生きてくるし、結果が出ればなお嬉しい
でしょ。あと、種をまこうとしない人も世の中にいるのに、君は種をまいてる
じゃないか」と言われ大号泣しました。所帯持ちで辛い中、悩みを聞いてくれて
ありがたいなぁとつくづく思いました。
その一方で早く結果を出したいという焦りがあります。
ファームでくすぶって、いつしか追い出されそうな選手の気持ちに何となく似て
いると思います。焦れば焦るほど結果が出ず、周囲からは酷評されてしまう。
日本ってのは変に外国の真似をすればするほど、いびつに歪んでくると感じますね。
農耕文化で培ってきた「助け合い」の精神よりも、やがて「個人主義」が美徳と
賞賛されれば、みんな我先に結果を残さんと蹴落としていく。
自分にはそれが耐えられない部分もあり、折り合いがつけられないまま、適応障害
のような症状を引き起こしていった。「自己責任だ、さあ選べ」と言われても、自己
責任という言葉ほど、他人が吐くときに限って無責任と思えるのは俺だけだろうか?
自分をはっきりさせなさいと人はよく俺に言う。
自分ほどはっきりしない存在はないと思うのだが…。
先般述べた事例だが、「DV夫に尽くす妻」や「ギャンブル依存症妻がやらない家事
をやる夫」がいい例だろう。
かつて自分は共依存なんですかと、国立の施設の精神科医に聞いたが居丈高な態度で
「そうではない」と一蹴され惨めな思いをしたことがある。患者はセンセセンセと
頼ってくるのに、慈愛のかけらもない医者に当たるのを聞くと、同じ境遇を味わって
いる故に怒りを感じる。